ベレー帽の風景

少年の成長記、或いはその断絶記

波乱のベレーぼう「リズと青い鳥」

下手な前置きは無しだ、それは次の更新に任せる。

 

一つだけ言うとすれば、これは『響け!ユーフォニアム 波乱の第二楽章 後編』について語ってしまうブログだ。しかも、既読前提の話しかしない。未読の方はどうか読まないでいただきたい。

 

 

 

 

リズと青い鳥』。みぞれと希美。

俺はこの関係性を、酷く勘違いしていた。

否、俺だけではない。きっとオタク共は皆勘違いしていた筈だ。それは俺のようにドヤ顔で曲解していた奴らだけでなく、決してその考察を言葉にしなかったオタクでさえも、だ。

何故なら、オタクとは夢を見る生き物だからだ。

だがオタクよ。弁えていたか?夢とはやがてことごとく、醒めて消えるのが道理だと。

そう、夢とは現実を前にして、いとも容易く折れるのだ。

 

本編で描かれるのぞみぞれは、いつか俺が想像したように、互いに分かり合えるものではなかった。そこには共依存という関係性すら存在せず、あるのはどうしても埋めようのなく思える隔たりだけだった。

 

みぞれは、希美が好きだ。

希美は、音楽が好きだ。

みぞれは、希美が好きだ。

希美は、みぞれの音楽が好きだ。

みぞれは、希美が好きだ。

だから希美は、みぞれの音楽に嫉妬せずにはいられない。

 

お互いの「好き」という感情は、初めからその対象が食い違っている。それを、しかしその食い違いに気づけば響きあえるなんて、そんなのは夢でしかない。

 

初めから、そんな夢を見ることは間違ってたんだ。

 

俺がそこに感じ取ったのは、明らかな離別だ。

それは結局『リズと青い鳥』の結末のように、別れてしまうという事実。けれど、それは悲しいというだけではない。互いの想いが食い違ったままそれに見て見ぬふりを続ける停滞よりは余程いいのだ。

だってこれは彼女らの出した「答え」で、どんなに悲しくてもそれは一つの前進。個の成長なのだから。

 

……本当に?

 

それはたぶん、ほんとうに。

 

腐敗を待つだけの停滞なんて、それは絶対してはいけないことなのだ。

「みぞれ」のために。

 

それが「希美」の出した、「みぞれと希美」への勝手な答え。

 

 

……でも、それでも、俺はその前進になにか諦めて、捨ててしまったものがあるように思えてならない。

だってこの二人は、幸福だったのか?

もし食い違ったままならば、そこにジレンマなんて存在しないんじゃないのか?

 

……いや。もちろん「みぞれと希美」において、幸福のジレンマは無視されるのかもしれない。関係無いのかもしれない。

 

全く交わらなくて、全く響かなくて、届かなくて。

だって『リズと青い鳥』と「みぞれと希美」は違うから。

波乱の第二楽章の作中において……

前者は、童話であり、曲だ。後者は、現実だ。

だから、それを同一にみなすのは夢を見ることだ。そしてそれは、現実を前にしていとも容易く折れる。襲ってくる違和感が、正しい保証なんてないんだ。

そもそも、『リズと青い鳥』が幸福のジレンマを描いたものとは限らない。高坂麗奈の解釈が、正しいものとは限らない。

 

──でも、彼女の言った通りに。

 

俺は理解した気になって。本当はそうじゃなかったはずのものを、形に合うように変えてしまおうとしているのではないか。

 

 

……襲ってくるその違和感が、正しい保証なんてない。だけどそれでも、無理矢理にでも、「みぞれと希美」に幸福のジレンマを探してみる。

 

みぞれは希美が好きだ。希美は、みぞれを嫌いではない。ただ、その才能に嫉妬しただけ。

そして、希美はみぞれの音楽を好きなのだ。

だが、これは「みぞれ」ではなく、その保有する「音楽」に重きを置いたものだ。

だから、これは食い違っているのだ。だからきっと、交わらない、響かない、届かない。「みぞれ」と「希美」は、酷く離れた別の人だから。

 

──けれど、このどこかに幸福のジレンマを入れるとすれば。

 

自分の大好きな音楽を保有している「みぞれ」が、他でもない「希美」を大好きでいてくれること。認めてくれていること。

もしかしたらこの、たった一縷のささやかな幸福が、傘木希美のジレンマたり得るのではないだろうか。

「みぞれ」が「希美」を好きでいてくれるというそれが、傘木希美に響いているのだと言い切るにはあまりに矮小なのかもしれない。

けれど、届いていないと言い切るにはあまりに可能性を打ち消す材料が足りていないのだ。

 

それを失念し、形に合うように変えるのは多分簡単だ。諦めればいい。その分かりあえない隔たりに、無かったユメとして捨てればいい。

 

いや。傘木希美という人間は、実際にそうしてしまったのかもしれない。酷い自意識の成れの果てを、有り得たかもしれない共依存を、ユメとして消してしまったのかもしれない。

けれどそれは、その時点で、幸福のジレンマとして成立してしまうということなのだ。

 

無論、俺の推測は可能性の域を逃れない。

俺のそれは曲解であり、妄言であるのが常だ。

 

傘木希美は鎧塚みぞれのことが大好きだなんて事実は、確かめようがない。

 

でも。

それでも俺は、オタクだからさ……(暗黒微笑)

希い、想像してしまうんだ。希美はその幸福を捨てたのだと。希美はその幸福を得ていたのだと。みぞれの想い、みぞれの感情。それが、ほんとうは希美に届き、響いたのだと。

それが招くのが共依存という外面をしたくだらないモノだったとしても、その内にあるものは本物で、幸福だったのだと。

 

それが、たぶん俺の探した幸福のジレンマの正体。存在した保証なんてこれっぽっちもない、違和感なんて厄介なモノの真実。

 

でもそれを敢えて引きずって考えてみれば、希美の「みぞれの音を支える」という台詞は、希美がリズになるということを比喩しているようにとれる。

そしてその比喩はやっぱり、幸福を手に入れながらも青い鳥の未来を願い、手放してしまうという、筋書き通りのジレンマへと繋がる。

リズと青い鳥』という、童話をもとに作られた楽曲。北宇治がコンクールで表現したそれは、「リズと青い鳥」たる誰かと誰かの、離別の儀式だったのかもしれない。

是と非。好きと嫌い。リズと青い鳥。みぞれと希美。希美とみぞれ。

傘木希美は、そんな相反する二つに境界を引いて、その空っぽに──響き、夢みた幸福を捨ててしまう。諦めて、捨ててしまう。

その幸福を、みぞれが飛び立つのには邪魔でしかない、籠のようなモノなのだと思い込んで。

 

その幸せな鳥籠は、もはや存在すら確かめられない、俺のような第三者も、彼女ら当事者すらも失ってしまえば信じ切れない……

──夢みることしか、できないものなのだろう。

 

 

 

 

読み返して、正直自分でも気持ち悪いなと思う。

けど、俺にこれだけの妄言を吐かせるモノが、この『リズと青い鳥』には存在した。

もしかしたらこの推測こそが、本当はそうじゃなかったはずのものを形に合うように変えてしまった、曲解なのかもしれない。

だって読了したときは、みぞれと希美のすれ違いに、食い違いに、絶望のようなモノを覚えた。

それが正しくない保証はない。それこそが事実である可能性は否めない。

 

でもこれは、いっぱい考えた俺の答えだから。

ずっと美しさを希って、やっと納得できた一つだけの答えだから。

この美しさが本物ならいいなって、そう思うんだ。

 

 

 

 

文中で俺が幾度か至上に位置づけていた、響くということ、届くということについては、劇場版〜届けたいメロディ〜の感想も交えつつ次回書きます。第二楽章全体と、リズと青い鳥についても追記します。

そちらを読めば曖昧すぎるこの文も理解できるように、頑張って更新するつもりです。

 

以上。

 

 

 

 

 

 

 「私、希美のこと、大好き」

  ーー

 「ありがとう……私も、みぞれのオーボエ大好き」

  優しい動きで、希美がみぞれの肩を押し戻す。みぞれは何も言わず、ただ黙ってうなずいた。

 

 ──もしも。もしも二人が互いに想いを向けていたのだとすれば。

 その瞬間。希美が捨てたものを、みぞれはみたのではないか。

 向けた希美という「好き」の対象に、向けられたのはみぞれの“オーボエ”という、前者の「好き」からは乖離した対象。

 けれどみぞれは、希美の勝手な決断に、優しく押し戻されたその瞬間に、彼女が演じているのをわかったのではないか。

 「みぞれのこと、大好き」

 有り得ないその答えを、希美が捨てたその答えを、もしかしたらみぞれは感じ取れたのかもしれない。響いたのかも、しれない。

 

 だとしたら、これはなんて切なく。

 ───なんて、美しいのだろう。